堂本剛独演会「小喜利の私」10/31に参加した

堂本剛さんがたった1人で大喜利をするイベント「小喜利の私」。何度開催しても第24回の同イベントの10月31日の公演が当たったので、行ってきた。

Twitterではネガティブな部分ばかりがフィーチャーされ、楽しかった気持ちがどんどんマイナス方向へと引きずられがちだが、そんなみんながざわざわとするある意味、思い出深い公演に参加できてよかったと思う。だって、本当にそれがどうだったのか、判断できるのは参加した人間のみ。だから外野でざわざわ言っている人の品格を見ることもできるからだ。アンチの妄言が生まれる過程もリアルタイムで把握できるというおまけもついている。

率直に言ってその日の小喜利は大喜利は少なかったモノの、全体的に楽しかった。これは否定できない事実だ。すごく満足して楽しい雰囲気のまま会場を後にしたからだ。もちろん、例のコントは最初、戸惑って、「え~」という声を上げた。しかし自分の中で一つの設定をつくった。これは50年とか60年後の想定した未来コントだと。そうすると印象も変わる。軍団が一人ずつ例の剛さんの声真似(似てない)で、光一さんあるある的な文言(プロテインは入れるから、ブログは年1回の更新とか、KinKiファンしか知らないような小ネタ)を言っていくとというコント。そして最後はうるさいわ的な感じで生き返るというオチ。あぁ、ずっとKinKi Kidsでお互い相方なんだって思えた。

もちろん、観客を戸惑わせ、変な空気感にしたネタを選んだのは失敗だったと思う。きっと彼らの常識とファンの常識が違ったのだろう。悪意があったとは思えない。ファンが集まっている舞台で悪意を持ったコントを展開する意味がないからだ。ファンの常識は、一般の人とは違う。一般の人ならなんとも思わないことでも過剰に反応する。例えば今回のネタの対象者についてはなおさらだ。私も「アンチが知ると面倒くさいことになりそう」って思った。この時点で一般の人との感覚が違う。でもそういう気持ちってフラットではない。そこでその気持ちを追い払って、先のような設定をしてコントを見ることにしたのだ。

そのときの嫌悪が入り交じった空気感は剛さんはもちろん、斎藤さんはじめ軍団の人たちもひしひしと感じていたと思う。だからこそ、剛さんはその後の寸劇に軍団の人たちを招いたのだと思う。ネガティブな印象で終わらせたくないと。1本目では剛さん自身もぐだぐだになったので、もう1本、裏方にいるお題の作家さんにお願いしてお題を出してもらった。住職とのラブストーリーの寸劇では、軍団の1人がカナダの令嬢役の剛さんの元カレになって、セグウェイを乗るのが下手すぎる小芝居を展開したり、またその元カレの彼女役になったりして寸劇を盛り上げようと一生懸命だった。そういう姿を見て、マイナスの印象をプラスに変えて終わることができたのに。そういう場を即座につくる剛さんの底力を観られたのは、ファンとしてはおいしい場面だったと思う。

天声の斎藤さんや軍団の人がはけてからの話では、一般的なことに置き換えながら、次の様なことを切々と訴えていた。

コントや歌の中で繰り広げている世界はそれ自体がフィクション。リアルではないということ。そしてその公演は最初から最後までが一つのパッケージであり、作品。だからその全体で判断して欲しい。たとえその中で嫌いなことがあったとしても、そこだけを取り上げてフィーチャーしてしまうと、見てもない人がそこを切り取って増幅させるので、ネガティブな声がより大きくなってしまうと。笑う行為は人間だけの行為。それを生み出す芸人さんを尊敬している。その人たちが真剣に考えたネタに好き嫌いはあっても、否定はしたくない。嫌いなら自分がそれを見なければいいだけ。選択権はユーザーにあると。

普段ホワホワしている剛さんとは違い、その姿は38歳のできる社会人そのもの。すごく信念を持った姿に圧倒された。KinKi Kidsというか、デビューして20年以上、芸能界のトップにいる人たちはやっぱり地頭がいい。覚悟もある。生半可な気持ちで芸能に携わっていない。

最近、特にうるさくなっている表現に関することについても、「あまりうるさくしすぎると何もできなくなる」と。ざわざわしている人は何をしてほしいのか。謝罪を要求するほどのことなのか。何も見ていない人に対して何を謝罪するのか。謝罪を要求するのであれば、即興が売り物の小喜利イベントなど辞めてしまえば良いと言うことになる。筋書きがないので今後もこういうことがまったく起こらないとは言えないからだ。

この最後の話を聞いても、書き込んだ人は頭が悪いと思う。何も口を閉ざせと言っているのでは無い。不特定多数が観るTwitterという公の場で、拡散する必要がないということ。自分が応援しているタレントの足を引っ張る行為をする意味がわからない。文句を言いたいのであれば、手紙にして直接、届ければよい。

本当にそのコントがいじめだと、悪だと言うのであれば、そのコントを邪魔せずに観た私たち観客も同罪だ。嫌なモノを見せられた被害者ではないことを認識すべきだ。そして外野でざわざわしている人たちは、楽しかったねと会場を後にした私たちも悪だ、罪だととがめればよい。

だが観てもない、その空気感を体感していない外部の人たちが罪だと責め、謝れという。そんな権利あるのだろうか。不思議で仕方ない。

私は本当に10月31日の「小喜利の私」を楽しんだ。剛さんの可愛いところはもちろん、縦ロールの髪の毛なのにリーダーシップを発揮する姿などが存分に観られた。斎藤さんも緊張しながらも精一杯頑張っていた。この回を体感できたことに満足している。

 

追記)2018/09/04

レ・ミゼラブルの舞台に斎藤司さんがキャストに決定したことを機に、またこのときに行われた軍団のコントをネタに斉藤さんを批判する人を見かけた。その批判の中にはねつ造されたことも多く含まれているので、追記することにした。軍団が行ったコントで棺が用意されていたとかいう話がアンチの中でまことしやかにまかり通っているが、そんな小道具は一切用意されていない。ただ、舞台の床に寝転がっただけ。もちろんお坊さんの衣装や祭壇、木魚なども無い。というか小喜利自体、お金をかけて小道具を用意することはない(ありものの延長コードなどは使うことはあるが。かつてのつよっしーなどぐらいか)。上記文章で書いたセグウェイも実際に舞台に登場したわけではない。すべて身体一つで表現する。それが小喜利のおもしろさでもある。

あまりここで書くのもなんだがなと思ったが、あの日、報道陣を入れたことからも、あの日の公演は吉本としてもフィーチャーしたい、斉藤さんはもちろん、あわよくば、剛軍団の若手たちを売り出したいという思惑があったことは想像に難くない。それを彼ら自身が、ネタの選定を間違ったことで、テレビではほぼ流れないという事態に陥り世にフィーチャーされるチャンスを潰しただけではなく、ジャニーズに対して謝罪を入れることになってしまった。おそらく、彼らは吉本のマネジャーからもおしかりを受けたことだろう。その後もあちこちで同ネタを披露したというのなら問題視してもよいが、同ネタはもちろん、堂本剛軍団なるものも封印されている。何の問題があるのか。もうしっかり制裁は受けたと思われる。

それなのに31日の小喜利を見てもいない(1次情報を持っていない)悪意を持った人が話をねつ造し、その2次、3次、4次…と悪意による妄想が膨らんだ情報を元に批判する。その行為が本当に正義だと思っているだとすれば、頭が悪いとしか言いようがない。それとも嘘・ねつ造によって人を陥れていることを喜びを感じているサイコパスなのか。ここまで丁寧に書く必要は無いかと思ったが、参加した(1次情報を持っている)ものの責任として正しい情報を追記しておく。